(ネタバレ注意)
まだ上映は続いているが、ご覧になった方の記憶が新鮮なうちにと考え、公約どおり『クラッシュ』について書くことにした。例によって鑑賞を前提として書くので、未見の方は急いで「新宿武蔵野館」か「日比谷シャンテシネ」へどうぞ。自信を持ってオススメします。
「人種問題もの」にジャンル分けされるだろう『クラッシュ』だが、アメリカに行ったことも無い僕に、こんなやっかいな問題をうんぬんするのはムリだ。
なので、ここでは作品のディテールに触れることはしない。ただ「作劇についての読解」を試みようと思う。
『クラッシュ』を観終わったあと、誰しもちょっと思うのは「そう言えば、一番最初に一番最後のシーンがついていたなあ。うん、そうだった」ということだろう。この作品はしばらく前から流行の「時間軸をずらす」(『メメント』『パルプ・フィクション』など)のを売りにした作品ではない。実際、冒頭以外は、時間は基本的にストレートに流れる。
この最後のシーンを冒頭に持ってくるというのは、一般的に「オチ」のための手法だ。観客を唐突に事件に直面させ、謎をかける。そうしてあとは謎解きの面白さで見せていく。最後の最後で「おお、なるほど!」という作り方。
似たようなものでは、物語が1〜5の場面があるとすると、最初に4から始めるというもの。伝記ものやスポーツものに多い方法で、例えば大きなトーナメントの決勝戦がいまや始まろうとしているところから始めるというヤツ。1にもどって、最後に実際の試合場面の5が来る。とにかく最初に観客の心を鷲づかみにしておく、という方法だ。
しかし『クラッシュ』はどちらでもない。いや、厳密に言えば、殺人事件が起こっているわけだから前者とも言えなくはない。しかしあのシーンは「謎かけ」が目的だっただろうか? その印象は限りなく薄い。「謎」をバネにして話を転がしていこうというシーンには思えない。
また、『ドグラ・マグラ』や『ロスト・ハイウェイ』のように、メビウスの輪の構造で物語がまた最初から始まるわけでもない。
では、なぜこのような構成にしたのか?
これが今回のテーマ。
論を効率的にするためと、作品にならって、まずは結論から書いてみよう。
1 最初に「オチ」をあかすことで、「ワン・アイディア・ストーリー」化するのを避けるため
2 寓話(もしくはファンタジー)である、という作劇スタイルの宣言をするため
3 結末を迎えた上で、最初に立ち戻らせることにより「表層的な印象判断」の浅薄さを問うため
大きくわけてこの3点であると、僕は考える。順を追って説明していこう。
まず「1」から。「ワン・アイディア・ストーリー」とは、基本的には『シックス・センス』や『猿の惑星』みたいにトリックの妙で見せる「オチもの」作品を指す。またモンスターものや多くのコメディも、そういうものだと言える(透明人間、というキャラクターを生み出した時点ですでに勝ちだろう)。また『市民ケーン』なんかも、一種の「ワン・アイディア」と言えよう。
この手法の長所は、観客に強烈な印象を与えられるということにある。奇想でねじ伏せるわけだから。逆に短所は、単純化されやすいこと。『キング・コング』がいかに古典的ラヴ・ストーリーだと僕が熱弁をふるってもなかなか観に来てくれないのは「デカい猿が暴れる話」として片づけられてしまうから。
『クラッシュ』は、ドン・チードル夫妻の事故の場面から始まる。ぶつかった後、チードルが妻に独り言のようにつぶやく。
「ロサンゼルスでは、人は鋼鉄とガラスの中にいて、衝突しようとしない…」
これは、通常の映画であれば「オチ」の台詞だ。時間の流れから言えば、さまざまな車の衝突が繰り返されて、関係が交差しあい、最後まで心を閉じていたチードルが、洩らす言葉。その一言で、観客は改めて今作では「車」とは「心の壁」を意味していることを確認し、感慨を覚える。…というのがスジだ。
ではなぜそうしなかったのか。それはおそらく「問題の単純化」を避けたからだ。この作品では、「単純こそ悪」とでも言わんばかりに単純さに陥ることを否定している。どん、とオチたところでひとしずくの涙とともに「人は分かり合えないのね」、これですまされてたまるか、という意志を感じる。
そして僕のような評論家気取りに、「あの作品における車の意味はね、」としたり顔で語られてたまるか、という反骨。つまり、これは「手を隠さないポーカーゲーム」だ。配られたトランプカードをためらいもなく表向きにテーブルに投げて、「ノーチェンジ。さあ、君の番だ」という不敵。
これはそのまま「2」に繋がっていく。チードルの台詞は、この物語の骨組みを説明してしまっているわけで、この映画は「車の衝突を人と人との衝突になぞらえた物語です」ということをいきなり言ってしまっているのだ。つまり「寓話」(寓話って何? という方は稚拙ながらSEEK第1号の[SEEKism]に簡単な説明あり)ということを宣言しているということ。これから始まる物語は、リアリティを追求するものではない(少なくとも枠組みに置いて)という表明。だからこの作品を「ご都合主義的」という批判をしているレヴューや感想を見つけたら、その人はここが「読めていない」とわかる。この作品は作劇のスタイルを明確にしてから物語を始めている。だから ジグソーパズルに予定調和だとか、結末が容易に想像できる、という批評をするようなものだ。
さて、物語は衝突事故や車に関する事件を連鎖させながら、複雑に展開されていく。だがしかし、常に目的はひとつだ。価値判断や認識をすべてひっくり返すこと。これに尽きる。このシンプルさが、ドラマのベクトルをぶれさせず、複雑でありながら一つの強い流れを生んでいる。登場人物のすべてと、観客の第一印象はくどいまでに覆される。この覆しの徹底と、激烈なドラマの振幅で、この作品は個性を放つ。ここで「3」だ。
悪そうなヤツは、優しさや尊厳を見せ、善さそうな人は、言っていたことと違う行動を取る。最初に抱いた印象がすべてひっくり返されたところで、もう一度そこに戻ってみよう、というわけだ。あなたが抱いていた印象なんて、まったく当てにならないだろう? 「決めつけ」が諸悪の根元では? という問いが突きつけられる。
この問いは通常で考えられる「道徳」を躊躇なく裏切っている。偽善的人権派がいうような説教とは違う。レイシストの上司が許せなく、署内で屈辱的に侮辱されることも厭わなかった若者が、「黒人」に恐怖して射殺する結末の絶望感。
悪そうに見える人も、本当は善い面も持ってるんですよ、なんて薄っぺらいことではない。だからここで「人種問題」を越えた普遍性が立ち上ってくる。寓話の面目躍如だ。「人種問題」という政治的観点からしかこの作品を観られない人は、ここを読み誤る。「人種問題」は素材であり、一事象なのだ。
監督ポール・ハギスは、だから最後に雪を降らせる。群像劇の常套手段として散らばったドラマにまとまりを持たせるために、登場人物すべてに同時に同じ事を起こさせるのだが、この雪はそれである。しかし、ただ意味もなく降らせたわけではない。われわれは冒頭に立ち戻らされている。そのときのチードルの台詞。
「ロサンゼルスでは、人は鋼鉄とガラスの中にいて、衝突しようとしない…」
そう、舞台はロサンゼルスなのだ。ロサンゼルスで雪が降ることは滅多にない。降るはずのない雪が、舞っているのだ。これ以上の説明は不要だろう。
しかし、まだ消え残る疑問がある。確かにわれわれは浅薄な印象判断を覆された。そして時間軸をずらすことで過去に立ち戻らされ、それを省みた。だが、どうだ、この閉塞感は。この物語の結末に、何を感じろというのか。現実とはそういうものだ、と言うのだろうか? 安易なハッピーエンドをつけることは、ウソを付くことになる。確かにそうだ。でもそれは、自らの「宣言」に否定を突きつけることじゃないのか? 最初に立ち戻らされても、そこは時間の流れ的には最後の場面であって、物語が円環構造でない以上、時間は進まざるを得ないじゃないか? その先には、困難だけがあきらめに近い形で横たわっている、とでも言うのか?
否。
この物語には確かに安易な解決や、薄っぺらい幸福は用意されていない。それでも、監督は、自らの作劇のスタイルを堅持した。このスタイルに諦念や絶望は不似合いだ。
立ち戻った、その先に続くものは、クリスマスである。この物語はクリスマス間近の2日間を設定してある。
星の光ほどに微かかもしれないが、ここに希望が祈られている。
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