このコラムには『バットマン リターンズ』『シザーハンズ』『マーズ・アタック!』『ヴィンセント』の結末に触れる部分があります。また『バットマン リターンズ』を観たことを前提に書いています。ご覧になってない方は、傑作なので急いで観て下さい。
プリンスのニューアルバム『3121』がすこぶる良い。サビが利いたキラー・チューンが無い代わりに、アルバム全体が輝いている。あまりキャッチーな曲があると、全体がそれに引っ張られてしまうから良し悪しだ。プリンスのようなアルバムアーティストは、今作のような形がベストだろう。
ところで近頃DVD売場へ行くと相変わらず『チャーリーとチョコレート工場』と『コープス・ブライド』が平積みになっている。両作ともジョニー・デップ&ティム・バートンのゴールデンコンビで、昨秋の連続公開はファンにはとびきりの贈り物であった。
それにしても近頃ペンギンを見ない日がない。駅どころか、ケータイ電話にも進出で、さらにはコンビニにも出没だ。このまま日本はあのペンギンに乗っ取られてしまうのだろうか? 映画館の入り口も、やがては「タッチ&ゴー」になるのだろうか?
…このような日々から、ごく自然に連想されるキーワードは『バットマン リターンズ』しかない。これはもう時代の要請だな、と感じた。今再び、この作品を語るべきときが到来したのだ。
ティム・バートンが好きだった。中学、高校の頃には、夢中になって観た。もちろん、今も好きだ。だがもう、あの頃みたいには愛せない。彼の映画は、何かが変わってしまったのだ。
それは何だろう? 『バットマン リターンズ』より後の作品が全てハッピーエンディング(『猿の惑星』は僕には無かったことになっている)になったから? はぐれ者たちが自分を肯定し、開き直り始めたから? …それらはもちろんその通りだ。だが、それだけでは完全ではないと思う。なぜなら『マーズ・アタック!』までは、まだ僕の愛するバートン映画だったからだ。だから、前述のことだけで、作品の変容は説明しきれない。失われたものは、他にある。
『バットマン リターンズ』がおそらくもっとも本質的なバートン映画だと、よく言われる。だからこの作品について考えていくことで、バートン映画に迫ってみよう。
この作品のまず異様なことは、コミック・ヒーローものにも関わらず、主要登場人物が皆、アイデンティティ・クライシスに見舞われているということだ。自分の心の中の二重性に苦しみ、孤独にさいなまれている。そして彼らの行動の動機は全て内向きなのである(『スパイダーマン』『XーMEN』を経た現在では珍しくもないように思えるが、初めて『バットマン』が公開された当時は実に奇妙な気がしたものだった)。
ペンギン男は、自分を捨てた両親に会いたい(つまり、復讐したい)ということが行動のほぼ全てである。そのことで、自分を取り戻そう(人間として認められよう)とする。
キャット・ウーマンは、うだつのあがらない孤独な自分に対する反発からの社長マックスへの思慕(これが会議での質問の理由であり、極秘書類を調べる理由である。つまり認められたかったのだ、彼女は。最後の殺し方からもそれがわかる)が裏切られたことへの復讐をその行動の理由とする。だから結局自分自身に復讐しているのだ。
バットマンは子どもの頃両親を殺された孤独から、愛の欠乏と莫大な資産とのギャップに苦しみ、罪悪感から奇妙なコスチュームをまとって闇に隠れながら正義を行うという、ゆがんだマスターベーションに湯水のように金を使い込んでいる。
バートンの見事なところは、これらキャラクターの精神的な欠陥をきちんとヴィジュアル化してみせるところである。ペンギン男は「ヒレのような手」を持っているが、「手」というのはコミュニケーションに最も重要なツールである。そこに問題がある、というわけだ(『シザーハンズ』も同様。ただしこちらの欠陥は、同時に芸術を生み出してもいるという複雑さを持っている)。映画ではことさらにそこを強調する。ペンギンが切り取った他人の手首で握手したり、選挙コンサルタントに手袋について話をさせたりしている。
またペンギンはいつもパラソルを手にしている。これは雨の日に傘の下で歌を口ずさんだことある方ならわかるだろうが、傘というのは個人的な空間を作り出す道具でもあるのだ。つまりこれは「心の壁」を表している。
ついでにもっと言えば、ペンギンは口の中がなにかヘドロのようなもので真っ黒で、場面によってはそれが口からだらりと垂れるが、これはあふれんばかりの怨恨が吹き出したもの、とも考えられるだろう。
キャット・ウーマンは『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のサリーと同じく、ツギハギだらけのコスチュームをまとっているが、これはそのまま彼女のハートの中身を表している。また相手に突き刺すと必ず取れて残る「爪」は、女の独占欲の証とでも言ったらいいか、バートンには珍しいエロティックな小道具である。バットマンはその「爪」をそっと大切に扱い、ペンギンはそもそも相手にされてないことを知り、投げ捨てる。
ここで重要なのは、これらデザインが、これほど病んだ意味を持つにもかかわらず「コミカル」(マンガ原作だからではなく)であるということだ。「スタイリッシュ」や「グロテスク」ではなく、「コミカル」でカワイイというところにバートンの、ポピュラリティの秘密がある。ハリウッドの大作という枠の中にも関わらず、これほどまでに暗く、私的な作品を作り上げて、なおかつヒットさせてしまうという離れ業はひとえにこの「コミカル」にある。キャンディバーのような赤白のしましまのミサイルを背負ったペンギンや、巨大なアヒルちゃんに、みんなやられてしまうのだ。
この「コミカル」、もちろん理由がある。すごく単純なことだ。憎めないから、ということ。バートンの作品では、モンスターや気味の悪いものがいつも扱われるが、それらは彼にとっては「憎めないもの」なのだ。つまり彼は単純な道徳の住人ではなく、そういう「疎外されたもの」へのシンパシーがある。だから愛情あふれるキャラクターデザインになる。
こうして創造したキャラクターたちに、ときにバートンはシンパシーゆえに「悲劇的」な結末をもたらしてきた。監督デビュー作でストップモーションアニメである『ヴィンセント』ではアラン・ポーにのめり込んでいる少年を闇底に葬り去り、『シザーハンズ』ではエドワードに殺人を行わせて社会から抹殺した。『マーズ・アタック!』では無邪気に暴れ回る火星人を、あっけなくヨーデルで全滅させた。
そしてこの時、圧倒的な絶望感に観客を突き落としておいて、一種の「葬礼(比喩的な意味で)」を行うことで、「コミカルでありながら同時に荘厳である」という二律背反の、前人未踏の領域に踏み込ませる。この瞬間が、バートン映画のコアだ。胸は締めつけられ、その反動で、アウトサイダーへの強烈なシンパシーが喚起される。
この「バートン・コア」のもっとも純粋な発露が『バットマン リターンズ』のペンギン男の死の場面であろう。
最終局面において、ペンギン男は人間の仲間から裏切られ、ペンギンたちにミサイルを撃ち込まれ、一度は倒れるが、瀕死の状態で立ち上がり、まだ攻撃せんとパラソルを手に取る。されどそれはクルクルと音楽に合わせて回るだけのおもちゃであるという哀切極まりない最期の喜劇を演じ、ついに倒れ込む。
するとその遺体のまわりに、どこからか現れた人の背丈はあろう皇帝ペンギンが4匹、厳粛な面持ちで隊列を組み、稚拙な足取りでゆっくりと下水の海に、怪人の亡骸を葬る。鳴り響く鐘の音、泣き声にも似たコーラスの調べ。
このような異様な感覚は、この後の作品では徐々に薄まっていく。『エド・ウッド』ではベラ・ルゴシの大仰な台詞回しに、あるいは麻薬治療の際の悪夢にその断片があった。『マーズ・アタック!』ではスローモーションでUFOを海に沈めてみせる場面に、それを観た。
しかしこれらより後の作品には(少なくとも僕には)ほとんど「あの感覚」を感じることが出来なかった。『コープス・ブライド』の美しいラストにその残り香を匂ぐが、以前とは本質的に違っている。
「バッドだがコミカルなデザイン」や「アウトサイダーへのシンパシー」や「ゴシック趣味とカラフルポップ趣味の両立」という要素たちを使って表現していた「コア」には、もうしばらく出会っていない。今は要素だけがある。…もちろんその要素たちは、素晴らしいのだけれど。
その理由を監督の私生活や年齢のせいにするはたやすいが、個人的には、バートン的世界がやすやすと受け入れられてしまっている「サブ・カルチャーとメイン・カルチャーの逆転した現状」が彼を変えた(あるいは変わらざるを得なかった)原因のひとつではないか、などと考えている(ちょっと大げさだけど)。
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