前回の続き
さて(2)の問題に進む前に、そもそもの『トゥルーマン・ショー』の「ドラマとしての構造」を確認しておこう。
当然哲学的な問いだけではストーリーを転がすことはできないから、今作は「青年の自立」がドラマの主柱になっている。
常にカメラで撮影され、ディレクターの演出通りに日々を過ごす、というのは誰の目にも明らかに「抑圧的な親子関係」を思い起こさせる。ディレクターのクリストフの「生まれたときから見守ってきた」の台詞もある。クリストフとトゥルーマンを疑似親子関係として描いていることは間違いない。
ただ、トゥルーマンには一応育ての父親がいる。この父親はトゥルーマンが町の外に出られなくなるトラウマを作るため、子どものころ海で溺死させられる(もちろん役の上で)。だが何十年か後、スタジオに紛れ込んできて、トゥルーマンと再会してしまう(最初は会わせまいとしたが、結局この再開はクリストフによって感動的に演出され大好評を博した)。このことでトゥルーマンはトラウマを克服し、町を出るきっかけとなる。
父と子の関係が二重にあることになるが、役者父との関係が実際に顔をつきあわせてのものに対して、クリストフとトゥルーマンが対面することはない。
クリストフはスタジオ内の「月」の内部にいて現場を指揮しているが、ちょっと考えていただきたい。これは物理的に微妙だ。空が映写されたスクリーンだとするならこの「月ブース」は天動説的にドームの天球を移動していることになる。何千というカメラが設置してあるにも関わらず、直接的に監視するスペースなんて本当に必要なのか。そしてなぜそれが大がかりに移動する必要があるのか…あるわけない。だからこれは「象徴」なのだ。クリストフ(Christof)という名前からもわかるように、これはキリスト(Christ)を指している。
ただし、今作の場合、直接的に宗教の問題を扱っているのではなく「キリスト教道徳」(=西洋の価値観の基盤)と捉えたほうが正確だろう。
事実、トゥルーマン・ショー世界は善に満ちあふれている。トゥルーマンの屈託のない笑顔は、この平安な町でなければ生まれない種類のものだ。だが結局トゥルーマンは「真実と自由」を求めて町を出ていくことになる。保護や監視から離れ、自分自身の価値観を創造するために。自分の意志で人生を決めるために。
『マトリックス』も同様の構造で、安寧な仮想世界を飛び出して、破壊されつくした現実世界でコンピューターと対決することになる。やはりキリスト教的記号を作品にちりばめて、「既存の道徳/価値観」からの脱却というテーマを展開するのも同じだ。
さて、ドラマの構造を確認したところで(2)の疑問を考えてみたい。
「ザ・シムズ」では、操作キャラをときどきトイレに連れて行かなければならない。これがやっかいだ。
おしっこをガマンした状態では、ハッピーな気分になれないので、仕事にもデートにも集中できない。あまりガマンさせたままにしておくと、いい大人なのにパブリックな場所でも粗相をすることになる。シム人もプレイヤーも気分はガタ落ちだ(美女シム人をわざとおもらしさせるという倒錯的なプレイの場合だけ、シム美女はがっかり気分だが、プレイヤーはムフフフという逆転が起こる)。
ならばどのタイミングでトイレに行く指示をあたえるか。これはプレイヤーによりけりだろう。少しでもたまったら行かせるようにすれば、間違いはないが、頻度が多くなり時間のロスが増える。ギリギリまでガマンさせて、一気に放出すれば、他の行動に多く時間を割くことができるが、気分がブルーがちになるし、リスクも伴う。
さて、シム人の気持ちになってみよう。プレイヤーがトイレに行く指示を出すとき、このシム人にはどういう意識の動きがあるだろうか。
おそらくシム人的には「なんとなく」トイレに行っているだけに違いない。彼らは「プレイヤー」という存在を知り得ることはないからだ。ふとトイレに行きたくなり、そこに疑問は生まれないだろう。そう、僕らが「なんとなく」トイレに行くように。
「なんとなく」と言っても、いろいろな要素はある。
例えば恋人とレストランに来ていて、この後、月夜の公園を散策することになっているからレストランにいるうちにすませておこうという予測的なものもあれば、ちょうど他にすることがないとか、ある時間に行くことが習慣になっているとか、トイレの近くを通りかかったとか、友人が入ったついでとか。
むしろこういう他の要素によって決まってくることのほうが多いかもしれない。つまりそこに明確な「意志」は実はあまり働いていない。これはしかし、トイレのことだけだろうか?
以前にも書いた気がするが、剛山はスプーン曲げブームのとき、日々練習を重ねた。僕にも出来る気がしてならなかったのだ。しかし一切曲がらない。「曲がれ、曲がれ」と異様に集中して念じたものの、まったくダメであった。そしてその修行の繰り返しの中であるときふと気づいた。「曲がれ、曲がれ」と念じても、スプーンどころか自分の指先すら曲がらないことに。
このとき、ものすごい「奇妙な感じ」がしたものだ。あれ? 自分の身体ってどうやって動かしてたっけ? 右脚よ、伸びろ! と右脚に強力な念を送ってみるものの、右脚は微動だにしない。あれ、おかしいな。どうやって歩いてたんだっけ? 念が足りないのかな。
「剛二郎、ごはんよー」
はいはい、今行くよ…って、おいおい歩いてるじゃない。
ここからわかることは、僕らは自分の行動を完全に意識のコントロールのもとにおいているわけではないということだ。
トゥルーマンの生涯は、ディレクターであるクリストフの演出によって巧みに操作されてきた。両親や親友のアドヴァイス、ポスターやテレビ、ラジオなどを使った意識への刷り込み、そのほか外的要素の整備によってトゥルーマンはあたかも「自分の自由意志」で人生を生きてきたと思っているだろう。仮にすべてのカラクリを知ったあとでも、自分の精神が完全に操られていたという実感は持ちがたいのではないだろうか。『マトリックス』世界でもこれは同様。
つまり、仮に僕らの精神が「プレイヤー」に巧みに操られていたとしても、僕らは気づき得ないことはもちろん、実感できないだろうということだ。
「プレイヤー」の指示は言葉ではこない。言葉で指示が来ていなければ、指示が来たということを僕らは理解することができないはずだ。
ここで言っている言葉とは、純粋な言語だけでなく、ヴィジュアル・イメージも含んでいる。よくスプーン曲げの解説本ではスプーンが曲がったところを映像で思い浮かべろ、というようなことが書かれているが、左肩を上げている映像をどれだけ鮮明に頭に描いても、左肩が動かないのは「曲がれ」と念じたときと同じだ。
「プレイヤー」の指示は「なんとなく」そうしたくなる、というカタチで送られてくる。『マトリックス』ではそのあたりが明確ではないが、『トゥルーマン・ショー』では巧みに行動を誘導していく様が描かれる。あなたも思い出して欲しい。いつだったか、電車に乗れなかったのは、本当に偶然だろうか? あなたがバイトを選ぶとき手にした情報誌は、何冊の中から選んだものだっただろうか? 今日、その服を選んだのはどういう理由だっただろう?
手品で、マジシャンが相手に任意のカード等を選ばせる「フォーシング」というテクニックがあるが、僕らの人生は「プレイヤー」によってフォーシングされているのではないか。
だけど「プレイヤー」って誰だ?
シム人タケジロー・ゴーヤマは仕事が忙しくなってきて収入も増えたし、家事を少しでも軽減するためにメイドを雇った。すると、翌朝とびっきりのショートカット美女が家を訪ねてきたではないか!
しかも別の種類のサービスと間違えて呼んでしまったのではないかと勘違いしてしまうほどの超ミニスカメイド服を着用している。マズい。なんだこの胸の高鳴りは。しかも毎朝きっちり決まった時間に家に来てくれるのだ。これで恋なんてしないなんて、言わないよ絶対。
タケジロー、辛抱たまらず部屋を掃除してくれているメイドさんに話しかけてみる。悪くない反応。なにしろタケジローは性格に「笑いのセンスあり」が設定してある。粋なジョークがポンポン飛び出して楽しくないはずがない。わあ、メイドさん、笑顔もステキだ。
そんなわけで、今日はちょっと早起きして、上半身裸で練習を重ねたギターを演奏してみる。ヘビ皮ジャケットのオレはクールだが、激しいビートを素肌に刻むオレはセクシーだ。外に車の音。彼女が来た。
「おはよう、今日もよろしく」「あ、タケジローさん、ギター弾かれるんですね」「あれ、言ってなかったっけ。ちょっと今日は大事なライヴがあって。あ…こんな格好でゴメンね。没頭しちゃって」「あ…いえ、私のほうこそお邪魔してすいませんでした」ポッと赤く染まるメイドさんの頬。
ギターを鳴らしながらも、彼女を目で追ってしまう。よどみなく一心に働く姿に、愛しさがこみあげてくる。僕は、彼女に近づき、誘惑的な言葉を掛け、抱きしめた。
「ダメです、だって…お仕事がまだ…」
始め彼女の身体は驚きに強ばったが、やがてすっと力が抜け、すべてをゆだねるように僕の背中に腕を回してきた。重なる唇。もう君は僕のものだ。
だが彼女が帰って考えた。これでいいのか?
本当に僕は彼女を愛しているのだろうか? 手近な愛に逃避したかっただけではないのか。気がつけば僕はライブ会場の設営スタッフから、曲を作り演奏する人間になっていた。僕の音楽に熱狂する多くの人々がいる。素晴らしい幸福。
だけど僕は何を得て、何を失ったのだろう? そして今、その欠損をムリに埋めて、何をごまかそうとしているのだろう?
その夜、メイドサービスに断りの電話を入れた。明日の朝、もう彼女はこない。
庭にはトマトやレタスやじゃがいもが育ち、リンゴが木になっている。雑草を取り、水をやり、収穫しなければならない。新しい曲をつくる必要もある。その作業の多さが時間を埋めてくれる。…埋めてくれる? そんな卑下した言い方をすることはない。そう、これこそが僕の「幸福」なんだ。
気がつくとタケジローは髪が白くなり、老年期を迎えていた。ヘビ皮のジャケットは、もう似合わない。
気がつくといつの間にか、タケジローと剛山自身はほぼ一体化してしまっていた。
想定としてあったはずのタケジローの自我は、剛山の中で考慮されなくなり、五感の直接的な交流こそないが、感情は同調していた。「プレイヤー」と「プレイキャラ」の境界は限りなく曖昧になってしまった。
そうか! このとき、ある想定が頭に浮かんだ。
「トゥルーマンは実在してなかったのではないか?」
つまり、トゥルーマンも実は役者のひとりだった、ということだ。
うがった見方をすれば、映画の演出面からもある事実を指摘できる。それは「カメラの位置」だ。
今作ではこの町のあちこちに仕掛けてある隠しカメラで撮影しているという設定で、奇妙なアングルの映像が頻出するが、全く徹底して全部その映像というわけではなく、明らかにカメラマンが撮影していると思われる映像も出てくるのだ。
映画として成立させるためには多少のことは…と見過ごしてしまうところだが、徹底して突きつめるなら、あの町にはカメラマンがいて、トゥルーマンもカメラをどこか意識しながら「演技」していたのではないか?
ならばこの町で起こったすべては、クリストフによる「ザ・シムズ」プレイを見せられていた、ということになる。一見あの町で唯一の外部(彼以外のすべてはクリストフのコントロール下にある)だと思われていたトゥルーマンだが、結局トゥルーマン=クリストフだったかも知れないのだ。そうすればこの映画のあらゆる不自然さは消滅する。
ただし、クリストフのトゥルーマンの行動に対する驚きや喪失感は本物だっただろう。剛山のタケジローに対する同一感と同じように。
よく小説家や脚本家や漫画家が「勝手にキャラクターが動きだす」という発言をするが、それもこれと同様のことに思える。
このことは実は(1)と(2)の疑問を思い起こさせたそもそもの原因なのではないだろうか。
「ザ・シムズ」をプレイしたり、物語を書いたりすると、人間の精神の構造を一段下がって見られる視座に立つことができ、本来なら感得できないはずの「超自我」(と、知ったかぶってフロイト・モデルを使ってみたものの、あくまで便宜的な使用であって、正確な知識ではないのでご了承ください。詳しくは→参考wiki)をあたかも顕在しているように感じられる。「超自我」と「自我」の関係は、曲がれと念じても動かない指との関係と同じように「シンクロ率100%」(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』絶賛上映中)ではなく、その齟齬が世界の仮想感や自由意志が無いように感じさせる最初の素朴な動機のように思われる。超合金のロボットを戦わせたり、ぬいぐるみとままごとしたりするのに「楽しさ」があるのは、本質的にここに原因があるに違いない。
すなわち僕が操られているように感じた「プレイヤー」の正体とは、僕(顕在意識)の知り得ない僕(潜在意識)かも知れないということだ。
精神分析めいたことはただの映画館スタッフには荷が重すぎるのでこれ以上突っ込むことは避けるが、映画館スタッフとして思うのは、映画を観る、という行為も拡大解釈していけばこの齟齬を埋めるための行為なのではないか、ということである。ずいぶん、深いところまで降りてきてしまったけど。
『トゥルーマン・ショー』のラストは、トゥルーマンが町を出た感動に世界中が沸き立ちながらも、放送が終了するとすぐ、視聴者は別のチャンネルに変えてしまうというシニカルなものだ。
直接的には「物語」が持つパワー(世界をひとつにもする!)とその限界(所詮はテレビ[あるいは本、芝居]の中のこと。他人事)を示したものだが、自我による超自我への接近と不可侵の比喩とも読めなくもない。視聴者の代表がクリストフなのだと考えれば。
かくして僕もあなたも、次の映画を観て、次の本をひもとく。
いつか自分自身を思うようにコントロールできる日が来るまで。
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