【注意】ネタバレあり。原作は何度も映画化された古典的作品のため、公開中ですが内容に踏み込んでいます。オチはバラしてません。
この世でたった一人自分が生き残った時、どう生きるか。
…んーどう生きよう。
現実離れしたこの問題に即答できる解答手段を私は持ち合わせていない。無論これをご覧になっている皆様も途方にくれてしまうことでしょう。そんな状況に陥った場合の指針となるのが今回紹介します映画『アイ・アム・レジェンド』です。サバイバル技術網羅集です。
おっと、コーナーの主旨が変わっていますね(笑)前回同様、原作を基盤とし、映画との相違点、映画版の見所などを紹介していきたいと思います。
原作はアメリカのSF作家リチャード・マシスンが1954年に発表したデビュー作『地球最後の男』。SF長編小説であります。しかし、すでに絶版だったため、私が読んだものは、「地球最後の男」が、映画化に伴い、タイトルを変更、尾之上浩司氏の新訳で早川書房から2007年11月に発行された『アイ・アム・レジェンド』です。
舞台は1970年代。新たな世界大戦が終息した後のアメリカ。謎の疫病の蔓延により、大勢の人々が亡くなってしまう。しかし、それはただの疫病ではなかった。埋葬された感染者はウィルスの作用で生き返り、吸血鬼となって新たな生き血を求め、まだ生きている人々を次々に襲いだしたのだ。襲われた人々も感染し、やがては吸血鬼となって夜の街を徘徊するようになる。人類は滅亡してしまったと思われたが、荒廃した都市の中に一人佇む男の姿があった。彼の名はロバート・ネヴィル。人類最後の生存者であった。夜な夜な自分の生き血を求めて迫り来る吸血鬼の魔の手から逃れる為に、自宅に籠城し、孤軍奮闘していたのだった。やがて知る事実。ラストには驚きを隠せない展開が読者を待ち構えている。
…すごい設定。どうします?この絶望的な状況。もし自分がこの状況下に投げ込まれたら…。恐怖で明日が見えません。助けて。
さて、原作では1970年代の設定で、疫病感染者は吸血鬼となり、主人公のネヴィルは自宅に立てこもって吸血鬼との攻防を繰り広げている、といった具合ですが、映画版での時代設定は2012年。近未来ですな。
舞台となる都市はニューヨーク。原作では具体的な都市名は出てきませんが、作中に出てくるストリートや、街の名前を調べてみたところ、ロサンゼルスだと判明いたしました(アメリカの方ならすぐに分かるのでしょう)。
この変更点についてはっきりとは言えませんが、アメリカの象徴と言えば自由の女神、そして世界経済の中心地であるニューヨークを、壊滅、荒廃させることで、自国を始め、あらゆる国の映画鑑賞者に「人類は滅亡してしまったのだ」という現実感を掴ませる為ではないでしょうか?さらに、映画版も原作と同様、「疫病の蔓延によって人類が滅んでしまう」という設定です。そしてその疫病はマンハッタンから徐々に感染の規模を広げていくわけですが、封鎖、または隔離の映像描写がしやすいようにニューヨークを選んだのではないでしょうか。
では、吸血鬼はどうか?原作では姿、形は人そのものです。さらに吸血鬼ということで彼ら特有の弱点が存在します。それは、作中でもネヴィルが参考に読んでいる、ブラム・ストーカーが書いた、かの有名な『吸血鬼ドラキュラ』で記述されていたもので、ニンニクに弱い、十字架に弱い、木の杭を心臓に打ち込めば死ぬ、そして太陽の光に弱いということです。(実際にネヴィルもその弱点が効くのか、作中で試す場面があります)。これらの吸血鬼の弱点は皆様も聞いたことがあるのではないでしょうか?
「えー、伝説上の吸血鬼相手ですか?ちょっと冷めるわー」とお思いになる方もいるかもしれません。私も物語の序盤でこの文章を読んだ時にそう思いました。
ですが、その弱点にもちゃんとした理由があり、ネヴィルはそれを科学的、医学的に解明しようと努力します。しかし、原作のネヴィルは「工場勤務の職員」としか示されていません。そのため、その手の方面の知識を得る為に、昼の間に近くの図書館へ出向き、専門的な知識を身に付けていくのです。ところが、映画版ではネヴィルは軍の科学者という設定。おそらくこれは始めからネヴィルに知識を与えておき、物語の展開をスムーズにする為でしょう。
話がずれましたが、映画版での感染者は吸血鬼という感じではなかったですね。どちらかといえば、「バイオハザード」に出てくるようなゾンビの印象が強いですね。人の形をしてはいますが、姿は程遠く、肌がケロイド状で、テュルンテュルンしてます。全身にスライムをぶちまけた感じです。怖さと気持ち悪さMAX。当然、ニンニクや十字架を掲げるたり、木の杭を心臓に打ちつける、といったシーンは出てきません。ただし、日光に弱いというのは共通しています(両作品とも日中は日が差し込まない薄暗い場所で、日が暮れるのを待っている)。
さらに原作の吸血鬼よりも、映画版のゾンビの方が知能が高めのように思えました。ゾンビへの変更点については、最近のホラーもののブームがゾンビだからでしょう。吸血鬼はその対処の仕方からみても、映画版のような近未来都市のような舞台にとっては、いかんせん地味でちょっと古臭すぎますからね。
主人公が暮らしている家も原作とはやはり違います。原作では徘徊している吸血鬼を自宅に侵入させないように、窓を木の板で打ち付け、その周囲にスライスしたニンニクを吊るすといった防衛策しかありません。一方、映画版ではまだ敵には自宅の場所はバレていません。ですが夜になると、念のためにすべての窓を鉄格子で塞いだり、地下室にそれなりに充実した機器を揃えた研究所があったり、と完全にアナログとデジタルの差があります。
さらに注目すべき点は、犬の存在。映画版では最初から、とても賢く、飼い主に従順な「サム」というシェパード犬とともに暮らしています。何をするにしても、ウィル・スミス演じるネヴィルと一緒で、ネヴィルの方もサムにしょっちゅう話しかけます。寂しさを紛らわす為ではなく、本当の友のように話しかけています。原作でも犬の描写はありますが、最初からずっと登場するわけではありません。これも私の推察ですが、犬に終始話しかけるシーンを盛り込むことで、主人公の孤独さを逆に強調させていたのではないでしょうか。
以上のことのように大まかな変更点を比較してきましたが、やはりラストシーン、もとい、タイトルの意味がなすものが全くもって別の方向に働いています。これにより、作品のテーマが大きく変わっています。テイストもやはり近現代と近未来の話なので、生活レベルでの変化の描写が否めません。例えば、映画版では、昼間、暇な時間帯にはCDショップに出向き、CDやDVDを家に持ち帰って見ていたり、PCを駆使して、実験の模様をリアルタイムで記録していたりといった感じです。原作では前者がレコードでしたし、実験の際に使用していたのは主に顕微鏡でした。ラストシーンの相違は是非とも皆様の目で確認してほしいものです。
長々と書いてしまいましたが、最後に原作を読んでみた上での、映画版の見所はやはり、最先端の映像技術による、荒れ果てたニューヨークの風景と、ゾンビの棲家に迷い込んだ際のウィル・スミスの恐怖に怯えた演技。これには見ている方も緊張感と得体の知れない恐怖がひしひしと伝わってきました。
さらに主人に仕える従順な犬サムにも心を震わされました。そして、一人で血清を作りだそうとする科学者としての苦悩や、家族との想い出、ゾンビとの迫力のあるバトルは、小説を読んだだけでは想像できないものです。荒廃したアメリカの都市の想像なんて、日本人なので全く思い浮かばなかったですしね。アハハ。映像を通して理解できる描写の素晴らしさを今回は再確認いたしました。
そして何度も言いますが、タイトルにもなっている『アイ・アム・レジェンド』。原作版と映画版では違います。どう違うかは皆様の目でご確認ください。
それではまた次回会いましょう★
P.S.長さの都合で、割愛させてもらいましたが、実はこの作品、映画化が本作を含め三度目(映画界の定説では四度目)なのです。1964年に公開された、監督シドニー・サルコウ&ウバルトラゴーナ、主演ヴィンセント・プライスによる『地球最後の男』、1971年に公開された、監督ボリス・セイガル、主演チャールトン・ヘストンによる『地球最後の男 オメガマン』、そして2007年、フランシス・ローレンス監督、ウィル・スミス主演で公開中の『アイ・アム・レジェンド』の三本が直系ですね。映画界の定説を入れるのであれば1967年に公開されたジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』だということです。どの作品もレンタルショップに行けば貸し出ししているものなので、興味を持った方は是非拝見してみて下さい。ちなみに私は未見です。すみません(汗)。

アイ・アム・レジェンド
リチャード・マシスン 著
尾之上 浩司 訳
早川文庫刊
660円
(C)2007 Warner Bros. Entertainment Inc.