【ネタバレあり】
「シーキズム」で映画を語るとき、それは観たことを前提にする。このコラムの目的は「奇妙な観点」の提案であり、映画の紹介でも、評論でもないからだ。言い換えれば僕の妄想だったり、勘違いだったりするわけで、間違ってもここに書いてあることを他人に話すのはやめたほうがいい。ただ、この妄想にはそれなりの根拠があり、ロジックがある。だまし絵のように、知ってしまうと、そうにしか観られなくなることはあるかも知れない。
DVDの発売を記念して、今回は『宇宙戦争』について語ることにする。…でもこの作品、あんまり良い評判を聞かない。おかしいなぁ。僕、体がけいれんするくらい興奮したんだけど。
ラストが盛り上がらないとか、そういうことは置いておいても、あの、地面からトライポッドが出現して襲撃してくるところはヤバいでしょう。あそこのたたみかけるような展開は『プライベート・ライアン』の冒頭の凄まじい戦闘シーンに匹敵すると思う。あえて(だと思うんだけど)原作に忠実に3本足兵器を登場させ(前の映画化ではUFOタイプに変えていた)、さあ笑えるものなら笑ってみろ、と。時代遅れとかおマヌケとか言えるものなら言ってみろ、と。圧倒的な恐怖を味合わせてやる!! …と、こういう高らかな宣言が聞こえてくるような場面だ。
さて、もうすでにこの時点で映画代1800円はペイされたわけだが、僕の話はまだ始まってもいない。
この作品は、ナレーションから始まる。これが言いたいことの最初であり、結論でもある。すなわち全てであるということだ。
ナレーション、つまり「語り」とは何か。シンプルに言うと「語り手」がいること。当たり前である。「語り手」というのはその定義上、語られる物語の、時間的にも空間的にも「外」にいる。語り手が登場人物のうちの誰かでなければ、その性格はますます強まり、物語は物語性を増す、ということだ。…ちょっとわかりづらいかな。すごく噛みくだいて言うと、誰とも知れない人が、映画や小説の頭で「語り」始めたら、それは「おはなし」だってこと。「おはなし」ってのは何か伝えたいメッセージを登場人物とか状況に例えて、わかりやすく作られたもの、と大まかに考えていい。だから象徴的な性格が強い。昔話、神話、童話、民話、故事、こういうのは「現実味」は度外視で、伝えたいことが優先される。絵本のほとんどが三人称(語り手がいる)なのはこういう理由だ。
『宇宙戦争』の冒頭はミクロの世界から始まる。そこから段々とズームアウトしていくと、一粒の水滴になり、それに地球のイメージが重なり、次にそれは赤信号に変わる。このときに、モーガン・フリーマンによる「語り」が被さるわけだ。言っている内容はどうでもいい。原作の一節をただ読んでいるだけだから。大事なのは「語り手」がいる、ということ。この一点を覚えておけばいい。ほぼ同様に幕開ける『ファイト・クラブ』との違いは「語り手」が登場人物ではない、ということ。つまりこれは「おはなし」だ。
宇宙人が襲ってくる話なんか、最初から「おはなし」以外のなんでもないだろ、と思われるかも知れないが、ここでは形式とか語り口のことね。内容じゃなくて。すごくわかりやすい例を挙げると、オーソン・ウェルズという俳優がこの原作(「宇宙戦争」)をラジオドラマで演ったことがあるんだけど、そのときは冒頭をニュース番組の速報という形で始めた。それがあまりに真に迫っていたので聴いた人々が現実のことだと思ってパニックになったのは有名な話。これが「現実的」な語り口のほう。
ということなので「何で100万年も地下にいたんだ?」とか「ビデオカメラが動くのはおかしい」というのは野暮ってものだ。浦島太郎は海中で呼吸はどうしてたんだ? とかいう類いの質問と同じ。意味がない。頭が悪いと思われるので気をつけよう。
さてそれを踏まえて、監督は、宇宙人の襲来を現実の「戦争の記憶」で紡いでみせる。灰まみれのトム・クルーズ、あふれかえる人混みの中であちこちに貼られた人探しのチラシなどは、忘れ難い「9・11」の映像。空から降ってくる衣服は、ホロコーストを想起させ、川を流れる無数の死体は広島の悲劇を思い出させる。この「おはなし」は現実の戦争についてのものだということがわかる。しかも、軍とか政府の視点ではなく、一市民の視点から描いたものだ。21世紀型の、国家間ではない戦争の姿が明示される。
加えて、はっきりと強い主張を行っているのが「間接描写」だ。主な惨事はこの作品において、鏡や窓ガラスの反射、カメラの映像など「間接的」に描写される。
そう、われわれは「戦争」を直接など見ていない。常にTVや写真を通してイメージを作り上げる(あるいは作られる)ことに慣れてしまっている。今、こういわれて、「そういえば、あの映画そういうふうになってたな」と気付いた人は、すでに毒されきっていると言っていいだろう。違和感を感じなくなっているのだ。
劇中、人の話が聞こえない(耳を悪くした)マスコミの一員が登場するが、これは「聞く耳持たない」ことの露骨な表現だろう。露骨といえば、墜落している飛行機というのも露骨すぎるほどだ。
さて、結論を急ごう。最初のほう、ダコタ・ファニングの台詞「トゲは自然に出てくる」。これが取っかかりになる。
原作は百年も前の古典、オチはあまりに有名だし、映画も始まりからバラしてある。当時の執筆の意図は何だったか。帝国主義的世界情勢への批判?
詳しくは知らないが、今作の意図は驚くべきものと言わざるをえない。結論にたどり着くための要素は3つ。一、「ナレーション」。二、「戦争の記憶のパッチワーク」。三、「細菌」。
二つ目の「戦争の記憶のパッチワーク」からこの「おはなし」が現実の戦争を扱ったものだということはわかった。宇宙人とは“襲い来るもの”の暗喩である。それが地下に潜んでいたことについてはいろいろ臆測を呼ぶところではあるが、話が長くなるので触れずにおく。例えば「人類というものにア・プリオリ(先天的)な資質」とかは容易に考えられるところだけど。…だとすると今までにも何度かヤツらは地表に現れてきていただろうな。
で、ダコタちゃんの言うとおり“トゲ”は「細菌」によってやられちゃうんだけど、ここで、あぁ、原作に忠実なのね、と思考停止する人が多いんだよなぁ。でも違うんだ。この話はそもそもは「どんでん返しオチ」だったわけで、実は今回もそうなっているのだ。
ズバリ一言で結論から言う。この作品がたどり着いた答えは「戦争も大局から見ればただの自然の一摂理」。これだ。吃驚。アメリカの娯楽映画が、ついにそんな境地に?
映像から検証していこう。息子は生きていてよかったものの、元妻には見向きもされないほろ苦いドラマ的決着を迎えた後、世界はまた、冒頭と似たように一粒の星屑へと収斂[しゅうれん]され、茫漠たる銀河に紛れ去ってしまう。そこでは「地球」すら一細菌でしかない。
実は僕らは、こういう世界観を子供の頃から知っている。なぜか? 日本には手塚治虫がいたからだ。僕らは『火の鳥』によって、何度もこの考え方を刷り込まれた。素粒子→原子→細菌→細胞→生物→地球→銀河→銀河団→超銀河団→宇宙…みたいな入れ子というのか無限マトリョーシカ人形というか、そういう「構造」の中で、戦争で何人死にました、ということと、すりむいたヒジから入った菌が免疫にやられて死にました、ということと、本質的に何が違うのか、と。それは道徳的に「言ってはいけないこと」だけれど(だからアメリカ人が言うなよ、とこういう議論はあるにせよ)、ある「正しさ」は確実にあるわけだ。
ついにアメリカ映画が、(この手のテーマで)手塚治虫にまで追いついた、これは記念すべき作品と言ってもいいのではないか。そして今リメイクの際、制作者たちが仕掛けたトリックとは「主観の変更」によって作品の意義を転化するという精妙かつ大胆な、恐るべきものなのである。原作は主人公のルポタージュの形式を取っていた。だが、今回の「語り手」は誰だ?
手塚はそれを「火の鳥」と呼んだ。あなたが何と呼ぶか、もちろんそれは自由だ。 |